2009年8月4日火曜日

矢島美容室

矢島美容室は日本の三人のヴォーカルグループです。メンバーはDJ Ozma という歌手とトンネルズというお笑いグループです。DJ Ozma は東京の六本木で生まれて、2006年に初めてポップ歌手としてテレビに出ました。トンネルズのメンバーは木梨憲武という人と石橋貴明という人です。矢島美容室はダンサーの家族みたいに歌っています。

木梨憲武さんは矢島のお母さんとして、矢島カメリアマーガレットと呼ばれています。マーガレットさんは19歳の時からネバダでダンサーをやっていて、二人の子供が育ってから日本に戻って、歌手になりました。

DJ Ozmaさんは矢島の長女としてやっています。矢島カメリア直美と呼ばれています。前一緒にお母さんとダンサーをやっていて、ネバダに住んでいたので、日本語は全然話せませんでした。でも、日本に戻ってきてからすぐ日本語を勉強して、短い時間で日本語が話せるようになりました。ありえないでしょう?

石橋貴明さんは矢島の次女としてやっていて、矢島カメリアストロベリーと呼ばれています。12歳なのに、筋肉と腋毛がすごいです。そして、髪型もアフロですし。みんなにとって、この人は一番面白いそうです。お父さんがいないので(亡くなったかどうかわかりませんけど)、いつも「パパ!ダディ!」とお父さんを呼んで探しています。

矢島美容室の大人気の曲は一曲目で、「日本の見方」という曲です。2008年10月にDJ Ozmaによって作曲されて、その時日本で三番目に有名な曲になりました。二曲目は「サクラ-春を歌はネバダ」という曲で、今年3月に作曲されました。最近、3番目の曲も出ました。「はまぐりボンバー」という曲で、「ビーチと夏のことを話しています。

矢島美容室を知らない人は、調べてみてくださいね。。お勧めです!

日本語の勉強

この一年間は本当に早かったです。ここに来た時全然日本語が喋れなくて、大変でした。後悔しているのは、日本に来る前に私が病気だったので、日本語を全然勉強しなかったことです。クラスを決めるためのテストで、カタカナの「カ、キ、ク、ケ、コ」しか書きませんでした。そして、字を覚えるのが下手だったので、ある日ひらがなとカタカナのクイズがあって、みんなは上手に書き終わったのに、私だけ書き終わりませんでした。一番ばかだったと思います。でも、授業で日本語を勉強しながら、字が上手に書けるようになりました。一番馬鹿な学生にならないように、ひらがなとカタカナを書くのをがんばりました。

私にとって日本語の文法と発音はあまり難しくないです。日本語の発音とインドネシア語の発音は似ているので、言いやすいです。今までの文法も面白くて、好きですから、問題があっても先生や友達に聞けて、すぐわかります。面白いのは日本語の考え方と英語の考え方の違いです。たとえば、英語の「V-ing形」は動いている感じの時に使います。習慣や毎日のアクションに使いません。日本語は違います。今部屋で休んでいても、「今琉球大学で日本語を勉強している」と言えます。ほかに、「来る」みたいな言葉は、英語なら「come, be coming, came」で、日本語なら「来る、来た、来ている」です。「濡れる」なら、「will be wet, is wet, and was wet」と「濡れる、濡れた、と濡れている」です。

実は、友達と話せるようになるために日本語勉強しています。インドネシアに帰国したら、どうやって日本語の勉強を続けるかわからないんです。日本語を話す友達もいないし、語学学校で勉強しても、あまり意味がないと思います。レベルがあまり高くないんです。また日本語を勉強したかったら、日本に来ないといけません。

2009年7月28日火曜日

帰国後

今もう7月の終わりです。そろそろ国に帰っちゃいます。この11か月本当に速かったと思います。帰国したら、私は4年生になりますが、琉球大学で勉強している授業はボゴル大学で成績にならないので、3年生の学生と一緒に勉強します。大学で、今やっている研究をつづけるつもりです。今の研究をここで終われるかどうかわかりません。残念だったのは、私は2週間ぐらい病気なってしまって、授業や研究に行きませんでした。ですから、今とても心配です。
大学を卒業したら、今までまた大学院に入学しようと思っているんですが、また考えてみたいです。将来で、大学の先生とか研究者とかになりたいですが、仕事しながら、辞意分の会社を立ち上げたらいいとおもいます。自分の会社を立ち上げたら、好きなことを生かせるし、就職活動をしなくてもいいし、他の人に仕事を与えることができます。他の事はもちろん結婚式ですよ。ハハハー

2009年7月7日火曜日

琉球大学の留学生祭り

やっと!!忙しい2週間がもう経った。留学生祭り準備があったので、あまり寝なかった。まいにち3時ごろねて、暑すぎて、早く起きて、まだ眠くても、もう寝られなかった。本当に大変だったんだ。休みたい時、私が寝られなくて、勉強したくても頭が痛かったから、あまりできなかった。いろいろな練習と準備で、疲れすぎた。よかったのは、祭りの日わたしはまだ元気だった、でも、今ちょっと体が痛くて、毎晩早く寝ないといけない。でも、大丈夫だ。今から勉強のために休んで、そしてまた勉強も試験も頑張る。

祭りの準備は1ヶ月前始って、選手までだんだん忙しくなってきました。先生たちもとても頑張ったよ。祭りの日、石原先生はリハーサルの時寝てしまった。山元先生もとても疲れていたようで、赤ちゃんにちょっと良くなかった。環先生は使わないものを売っていた場所で忙しそうだった。ささき先生も多分もう5キロ歩いた、ハハハー。

その日、みんな11時に準備を始めた。まず、テントやステージを作った。みんな一緒に頑張ったのはよく見えた。ステージを作るのは一番おもしろかった。ステージは使わない段ボールで作られて、あの段ボールは法文学部の隣のゴミ捨て場からとられた。そして、ガムテープではって、段ボールをつないだ。ステージを作った後で、私はインドネシアチームのテントに行って、料理を作っていた友達を待った。でも、リハーサルの時間になったので、2階に行って、サークルの友達と練習した。練習してから私たちはまた1階に下りて、リハーサルをやった。みんなが遅くなったので、石原せんせいがちょっと困っていた。私も友達がまだ食べていたので困っていた。リハーサルはちょっと面倒くさかった。他のせんせいたちも忙しかったから、石原先生は自分で忙しそうだった。だから、時間がかかって、遅くなった。リハーサルは4時前に終わった。めっちゃギリギリだった。

祭りは午後4時に始まった。その時私は2階にいたので、その間何があったかわからない。4時50分に1階に下りて、パフォーマンスが5時に始まった。1番目は文化交流サークルだった。私たちは三線を弾きながら「アサドヤユンタ」という歌と「島歌」という曲を歌った。でも、残念なことがあった。本番の時、マイクが遠すぎて、声があまり出てこなかった。スピーカーも遠かったから、自分の声と三線の音があまり聞こえなかった。難しかった。でも、悪くなかったと思う。次はインドネシアのグループのパフォーマンスだった。私とインドネシアのリキーさんが歌った。リキーさんはキーボードを弾いて、私はギターを弾きながら歌った。一番目の曲はブンガワンソロという曲だった。その曲を歌ってから、問題があった。リキーさんのキーボードはつけらなかった。私たちは本当にこまっていた。3分ぐらい待ってから、あのキーボードがついた。でも、もう恥ずかしくなった。2番目の曲を歌っていた時、とても緊張していた。でも、2番目の曲のほうがよかったので、ちょっと後悔しても大丈夫だった。私たちの後はタイグループのパフォーマンスで、二つの日本の曲を歌った。ダオとパンがギターを弾いて、プロイとネイが歌って、一人の日本人が三線(名前がわかないけど)を弾いて、他の人が踊った。一人の踊った人はベトナム人だった。タイチームのパフォーマンスが終わって、30分ぐらい休憩した。

休憩の後で、またいろいろなパフォーマンスがあった。まず、中国の留学生が中国踊りを踊ってくれた。そして、ベリーダンスサークルの人たちが踊った。踊った人が代替セクシーなので、みんな幸せになったようだ。全部で、ベリーダンスサークルは3回やった。其の後で、オサムさんとアズとラハイが台湾チームとして3曲歌った。オサムさんはとても上手にギターを弾いて、素晴らしかった。ラハイとアズも歌うのが上手だったし。そして、最後に、まだ私たちの文化交流サークルがパフォーマンスをした。1曲目はおじいじまんのオリオンビールという曲だった。そして、私と友達が4人でエイサーを踊って、菊池と道が三線を弾いた。祭りの終りに、みんなで、カチャーシーをした。とても嬉しかった。

祭りが終わった後で、料理グループやパフォーマンスグループは一緒に掃除した。掃除した時、ちょっと問題があった。インドネシアグループが借りていた道具、1つのボウルはどこに置いてあるかわからなかった。でも、ちょっと探してみたり友達に連絡してみたりしてから、友達からだれかがそれを持って帰っちゃったと聞いて、よかった。月曜日に私がそのボウルをササキ先生に反した。

2009年6月4日木曜日

ボロブドゥルのお寺


インドネシアは世界遺産が多いです。一番有名なのはボロブドゥルというお寺です。このお寺は825年にサマラトゥンガ王によって建てられました。このお寺の高さは265メートルです。海面からの高さは265メートルです。このお寺は大きくて、広さは1万5129平方メートルです。このお寺に仏像が504代あります。72代はストゥパの中にあります。1年に、1回しか使っていません。それはヴェサックの日です。

中学校で文化交流

月曜日、6月1日、日本語2と日本語4の学生たちは中学校に行きました。あそこで、中学生と一緒に文化交流を行いしました。この文化交流のために、私たちはいろいろな国の紹介の準備をしました。みんなは自分の国のスライドを作って、リハーサルをして、行きました。12時ごろ琉大を出て、1時10分に中学校に着きました。そして、あの中学校の校長が迎えに来て、挨拶して、私たちはコンピューター室へ行って、少し休みました。校長はこの中学校はプールがあると言って、私たちはびっくりしました。そして、校長が私たちにプールを案内して、鍵がかかっていたので、みんなは鍵を持っている人を待ちました。ドアを開けてから、私たちはプールに入りました。あのプールは本当にきれいで、屋上にあるので、あそこから海が見られました。5分後、二人の学生が来て、名札をくれました。そして、みんなは1階に下りて、荷物を持って、2階に行きました。学生たちはもう集まっていました。荷物を置いてから、私たちが座って、MCがこの文化交流を始めました。校長はもう一回挨拶や紹介をしました。校長が終わってから、私も挨拶しました。でも、緊張していたので、ちょっと間違えました(先生、ごめんなさいね。。)。挨拶が終わって、中学生はコンピューターで沖縄とあの中学校のことを紹介してくれました。あの発表の後で、三人の学生は沖縄の踊りを踊ってくれました。すごかったです。そして、私たちは別々に教室に行きました。私とチャイさんとダオさんとキャロルさんはおなじ教室で発表しました。まず、ダオさんがタイのことを紹介しました。ダオさんの後は私で、インドネシアの事を紹介しました。コモドを紹介していた時、学生たちがびっくりしました。あの学校の先生は「コモドはペットにできますか」と聞きました。私は「それは絶対危ないですよ」と答えました。私が終わって、キャロルさんがパプアニューギニアの事を紹介しました。パプアニューギニアは民族がいっぱいあるし、面白いので、学生たちがキャロルさんに民族の事を聞きました。最後はチャイさんの発表でした。チャイさんは発表を終わってから、みんなにお守りをくれました。みんなはうれしかったです。最後に、みんなはいっしょに写真を撮りました。3時20分に、私たちはミーティングの場所に戻って、お別れ会を行いました。その時、先生は私たちに学生たちが作ったお菓子をくれました。あのお菓子は2年生が作った物でも、おいしかったです。学生にバイバイをして、学校を出て、私たちと先生たちはビーチに行ってみました。ビーチで、みんなは一緒に写真を撮りました。そして、バスに乗って、帰りました。あの日は道が混んでいたので、遅く琉大に着きました。5時ごろ琉大に着いて、5時20分に会館に帰ってきました。

2009年5月25日月曜日

渡嘉敷島 5月22日

毎日授業があるけど、旅行したらいいでしょ? 
先週金曜日から日曜日まで、URSEPの学生とサポーターは渡嘉敷島に行った。留学生センターの石原先生と山元先生と山田さんも一緒に行った。金曜日午前8時に会館の駐車場で集まって、8時半ごろ出発した。バスでとまりん港まで行って、バスを降りて、フェリーに乗った。とまりん港から渡嘉敷島まで何時間かかったのか忘れた。渡嘉敷島に着いて、バスに乗って、泊まる場所に行きました。着いてから、石原先生とスタッフが説明して、学生たちが和室に行った。俺のルームメートは寛幸くんと拓山田くんとトウリョウくんだった。昼休みの後で、俺たちは体育館でスポーツをやりたかったけど、その時他のグループが体育館を使っていたので、できなかった。でも、テニスコートはだれも使われなかったから、俺たちがテニスをしました。テニスが終わって、みんなが5時にフロントヤードで集まって、旗下がりした。そして、晩ごはんを食べて、ちょっと休憩した。夜7時から、いろんなスポーツをやった。9時半に終わって、少し休んで、シャワーをあびた。寝る前に、俺たちがノーランくんとサイセイくんの部屋で集まって、名曲を歌った。1時ごろ、みんな帰って、寝た。